日本のサバイバルの歴史を振り返り、意外と日本の外交の手腕が悪くなかったこと、日本人がしぶとかったことがわかりました。自己肯定感が少し立ち直ったところで、日本のやらかしちゃったの失敗の歴史を振り返り、そこから見えてくる民族のやらかしパターンを解析してみたいと思います。
義理堅さが招いた史上最悪の外交的大惨事
日本人は昔から「義理と人情」「恩義を忘れない」ことを美徳としてきました。日常生活やビジネスの人間関係なら素晴らしい美徳です。
しかし、それを冷徹な国際政治の場にそのまま持ち込んだらどうなるか?
その最悪の結末を叩きつけられたのが、古代史最大の敗戦「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。聖徳太子たちが築き上げた「大国の足元を冷静に見極めるプラグマティズム」はどこへ消えたのか。同盟国の滅亡劇に巻き込まれ、勝ち目のない超大国に突撃した古代日本のやらかしを紐解きます。
1. 当時の状況:東アジアの巨人「唐」の本格始動
7世紀中盤、中国大陸を統一した「唐」は、前代の隋をはるかに凌駕する超軍事帝国でした。唐は朝鮮半島の「新羅(しらぎ)」と同盟を組み、長年の宿敵だった高句麗を挟み撃ちにする作戦を開始します。
その手始めとして660年、唐・新羅連合軍はあっという間に「百済(くだら)」を急襲。百済の王都は陥落し、国は滅亡してしまいました。
2. やらかしの引き金:「長年の盟友」からのSOS
百済が滅びた際、日本(当時の倭国)に滞在していた百済の王子・豊璋(ほうしょう)や、本国でゲリラ抵抗を続ける遺臣たちから、日本朝廷へ悲痛な救援要請が届きます。
「百済を復興するために、大軍と武器を貸してください! 王子を送り返してください!」
当時の日本の最高権力者は、大化の改新(乙巳の変)を成し遂げた中大兄皇子(のちの天智天皇)と、その母である斉明天皇でした。
ここで冷静な地政学的計算が働けば、選択肢は明らかでした。
- 百済はすでに正規軍が壊滅している。
- 相手はユーラシア最強の帝国・唐と、勢いに乗る新羅の連合軍。
- 日本本土から海を越えて補給を維持し、勝てる見込みは万に一つもない。
しかし、朝廷を支配したのは冷徹な計算ではなく、「長年、仏教や先進技術を教えてくれた百済を見捨てるわけにはいかない」「盟友の危機に駆けつけるのが人の道だ」という情念と義理でした。
3. 自爆のプロセス:無謀な渡海作戦と現場のパニック
朝廷は国家の総力を挙げ、数万規模の大遠征軍を編成。老齢の斉明天皇自ら九州へ親征しますが、現地で急死します。不吉な予兆が漂う中、それでも中大兄皇子は止まることなく、4万人規模の大船団を朝鮮半島へ送り込みました。
663年8月、朝鮮半島西部の白村江河口で、日百連合軍は唐の水軍と激突します。 『日本書紀』には、その戦術の拙さが痛々しく記録されています。
「我が水軍、争い進みて自ら乱る。唐軍、左右より挟み撃ちにして火を放つ」
唐軍はわずか170隻あまりでしたが、統制の取れた陣形と大型船、火薬・火矢を用いた最新の海戦術を展開しました。対する日本軍は、ただ功を焦って狭い河口に密集して突っ込み、身動きが取れなくなったところを焼き払われました。海は火と煙で覆われ、海水は血で赤く染まり、日本軍の大半が海の藻屑と消えたのです。
4. 転倒パターンの抽出:「身内の空気」で国際力学を忘れる
白村江の戦いで日本が踏み抜いた失敗パターンは、極めてシンプルです。
- 客観的な戦力差(唐の超絶パワー)より「身内の感情論(百済への恩義)」を優先した。
- 「引く」という選択肢が朝廷内の空気として許されず、ブレーキ役がいなかった。
大惨敗を喫した中大兄皇子は、我に返ってパニックに陥ります。「次は唐の軍勢が日本本土に攻め込んでくる!」と恐怖し、九州から瀬戸内海沿岸に巨大な山城(大野城・水城など)を急ピッチで築き、都を海の遠い内陸(近江宮)へ遷都して、何年も怯えて暮らす羽目になりました。
「義理と情緒」に流されて国を滅ぼしかけたこの大やらかしは、日本の対外戦争の原初的なトラウマとなったのです。

